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蹴人のぼやき

テンション.

自宅の電球の,ほとんどを変えた.消えてからかなりの時間放置していた場所もあったので,

結構,勇気のいる行動だったと思う.

変えたら,普段かなり暗い中で様々な作業をしていたんだと気付く.本当に明るくなった.

しかし,交換した場所の内,一箇所が点灯しなかった.なんでだろう.残念.

それにしても,よく一歩踏み出したと思う.何でもいいのだと思うけれど,目的が当人に必須と認識されれば動く.

その動機をどうやって当人に定位させるかは,今後の課題.

今日のケースは,当人のテンションが上がったことがトリガーとなった.テンション,重要.
# by shun-futsalar | 2012-02-05 00:00 | 日常

記憶と表象.

ケミストリーとスーパーフライが,ここんところのお気に入りで,車の中でずっと聴いている.
マッキーやいきものがかりも聴くけれども,特にケミストリーが一番「充実」していた日々と重なるから,好きだ.

ノスタルジーは,以外に大事だと思う.自分が暮らした「時代」の理解の起点になると思うからだ.
当時,聴いていた・カラオケで歌っていた音楽ややっていたスポーツとともに記憶されている「時代」.
場面場面にぴったりくる,そのシーンを思い出さずに居られなくなる曲がある.
# by shun-futsalar | 2012-02-02 23:57 | 日常

問題を一度「塩漬け」にする.

昨日の、転向問題は、完全解決とまではいかないが、問題の「そらし」はできた。
私の仲間は「気が晴れた」そうな。めでたしめでたし。

取り返しのつくうちは、何度も失敗していい。失敗から何を学ぶか、または、失敗を繰り返さないための
手段・方法について考えられればいいのだ。

だから、失敗そのものに対しては、「もう失敗はしたくない」と思わせる必要のために、
厳しい評価が下されてしかるべきではあるが、それが意識させられればその時点で未来への方途を
考え出さねばならない。もしくはそのヒントを与えて、導き始める必要がある。それを今日、再確認できた。


# by shun-futsalar | 2012-01-09 00:31 | 日常

私たちの部屋には.

「プラズマクラスターは○○だけ」がある。
部屋はそれなりの湿度に保たれ、今のところ、風邪など病気にかかる者はいない。

けれども、窓が常に結露していて、そこから滴り落ちた水滴がサッシの隙間に溜まって、
カビが生えているのはどういうわけか?

確かに、部屋は暖かい。けれども「プラズマクラスターは○○「だけ」は、空気中の菌を
除去してくれるのではなかったか。見るからに不衛生的であるのに・・・。

とはいえ、今のところ病気にかかる人が部屋の居住者の中から出てこないのは、
菌がそんなに攻撃力のあるものではないからか、それとも自宅がもっと悪環境なのか。

いずれにせよ、機能的にはなんら問題はないけれども、見た目=精神的問題はでかい。


# by shun-futsalar | 2012-01-08 06:17 | 日常

転向.

ひさしぶりに、「クソ」という言葉を浴びせられた。
私と同時に、私が面倒を見ていた仲間にも同じ言葉が浴びせられた。

素朴に思うが、「クソ」と「クソではない」を分かつ規準を示してくれないと、
私に対して浴びせられた言葉はいいとしても、その仲間がかわいそうでならない。
なぜならば、自分がなぜ「クソ」と言われたのかが分からないままになってしまうからだ。

何をするにも、結果がどうあれ人はベストを尽くそうとする。
評価はやってきたプロセスではなく結果で決まるから、結果の中身についてクソ/クソではないが
判定されるのは承知する。また、それを評価するのは他者であることも承知する。だからこそ、
どういう立場からどういう規準で評価するのかを、少しでも伝わるように評価を表現しなければならないと思う。

その表現のしかたがとても大事だと思うのは、その評価のしかたによって、評価された人が
活動を続けていくかいかないか、続けていくならばよりよいものにするために何をすべきか、考えたり
向かっていく動機につながるはずだからだ。

すなわち、今後の活動展開を左右するモチベーションが奪われてしまうのである。

ぶっ潰したい「敵」、倒さねばならない「相手」がいるのは理解できる。が、「消し去る」必要まであるのか。
しかもそれを身内でもやってしまっていいのか。

本当にだめだと思うなら、その根拠を示してはじめから「だめ」と言えばいい。
他のやり方が向いているなら、他の領域でこそ輝けると思うなら、そう導いてやればいい。
なぜ、そうしないのか。なぜ、無理にでもしがみつかせようとするのか。

「しがみつけない」やつに、しがみつくことしか道のない人々を見る資格(視角)などない、というのも
分かる。私たちがみようとする相手は、いろんなことほとんどに関して、選択肢を持たない、ある一つの道に
しがみつくことしかできない人々だからである。

そういう人々を相手にする、深刻な仕事であり立場なのだから、なおさら、仲間を「残そう」とする一方で、
未来へと全くつながらないような評価しかしないのが理解できないのである。

しがみつけないやつを、無理やりしがみつかせる必要はない。
しがみつけるやつにのみ、しがみつくしかない人々と向かい合わせればよい。

「転向」は、いろんな意味で解釈可能である。「転向」する理由や、そうなる状況をかんがみればよい。
だから、「向かない」から転向を必要とする場合、それを導いてやることは大事な仕事だと思う。
「向かない」ものを無理に「向くように」しても、根本は「向いていない」のだから、それこそ、
しがみつかなければならない人々に対して失礼というものだ、と私は思う。


# by shun-futsalar | 2012-01-07 19:48 | 思うこと

忍耐・我慢.

突然主張内容が豹変したり、何度も同じことを伝えようとしているのに伝わらないのは、
僕の表現の仕方や内容に問題があるのと同時に、僕に「忍耐・我慢」を経験させて、
それを覚えさせようとしているからに違いない。

何年も、何度もそれに耐え、いなし続けて生き延びたものが勝ちである。
別に、途中で辞めてもいいが、「辞めても同じことをするだけだ」と退路を断たれるので、
結局のところ選択肢は一つしかない。

それもある意味で教育の一つだと思うし、自分で自分のいたらなさを実感させされるように
なっている。こうした「忍耐」の要求にどのように応えるべきか。

はい・いいえの返事だけでは乗り切れない。自分の言いたいことを言い続けるのでは、
堅物という烙印を押されてそれっきりとなってしまう。

その時々ごとに柔軟な対応が求められるが、軸はぶらさずかといって同じことは言わない。
けれども、核となる問題関心は持ち続ける。また、「開き直る」。それしかないみたいだ。




# by shun-futsalar | 2011-12-30 20:36 | 日常

幸せ.

大学1年生のときに、コンビニでバイトを始めて学んだことがある。
それは、「自分がされて嬉しいことを他人に対してする」こと。

大学2年生になって、ある授業で学んだことがある。
それは、「自分では善意のつもりでやったことが、他人には悪意になることがある」こと。

大学院1年生になって、ある授業を通じて学んだことがある。
それは、「他人の立場にたって物事を考え、行動する」こと。

これから考えたいことがある。
それは、「人が喜ぶなにか仕事をすることが、どうしたら自分の喜びにもなるか」ということ。

「他人」といっても、自分以外の全ての人というわけにはいかない。
「喜ぶ」とは、どんな時を想定したものか。すなわち、「今ここ」の幸せか、何年後かというような、
「未来」の幸せか。それは自分の喜びについても同じことがいえそうだ。

# by shun-futsalar | 2011-12-27 23:27 | 思うこと

恩義.

今月頭に、恩義を返すための仕事を始めたと書いた。
その一部が、出来なくなった。かりっぱなしで返せなくなってしまった。

周囲では、「なぜ」と問われている。みな恩義をいつか返したいと思っていたのに、
なぜ、返せなくなってしまったのか、その原因が分からないのだ。
事実は、「返せなくなってしまった」ということのみ。

急がなければならない。このような出来事はそうないのだけれども。
# by shun-futsalar | 2011-12-25 17:18 | 日常

久しぶりに.

記事を投稿したいと思ったら、なんだか使いにくくなっていた。

具体的には、「投稿ボタン」「ログインボタン」がフェイス画面から消えていたこと。

いちいち、エキサイトブログのトップページにまでいかないといけない。会社の一つの戦略としてはいいが、利用者は間違いなく少なくなるだろう。

他への怒りと自への不満を含む「やりきれなさ」を、解消する場はどこにあるだろうか。
それが、ここ数年来の私のテーマの一つであり続けている。

気兼ねのない友人、配偶者、相方などなど、その思いを伝えられる相手を、求める人は多いのではないか。
けれども、現実には、そんな相手をもてる人などほとんどなく、日々、「やりきれなさ」と向かい合い付き合う人ばかりなのではないかと思う。

解決法としての「愚痴る」は、その意味で、正常人口の正常生活そのものである。
「愚痴る」背景には、自分の力ではどうしようもない「構造」との対峙が必ずある。
しかし、その構造をわが身において自然化する人々にとってすれば、「構造」との対峙は、あくまで自分で望んだ自発的行為とみなされ、「愚痴る」行為は、「いい大人なんだからしっかりしろよ」という正義感たっぷりの、常識に回収される。

確かに、それはそれで説得力のある言説であり、どこの業界でも、「自ら学んでなんぼ」精神は称揚される。
しかし、自らをして、自らが「やりたい」と思ったことにチャレンジする人が、この世にどのくらいいるのだろうか。
たしかに、それを求められる業界は存在する。だが、自分の思いと、自分の所属する社会=「界」=学派の思いとは、多分にズレる。それはやむかたないが、ズレの大きさが肝心となる。

僕は、ズレてしまった。
はじめから、分かっていながら、一度はそちらの色に染まろうとしたが、不向きだったと悟ったが、「悟り」はすなわち「界」内における「死」を意味する。噛み砕けば、研究室のやり方に合わぬ者は、研究者として生きる道からは淘汰されるのである。それが、我々のおきてである。

だから、私は、そのルールに則り、手を引こうと決めた。「思っている」という、未来志向で変化可能性を残した考え方ではなく、「決定」である。これから目指すのは、この数年間の経歴を「なかったことにする」作業である。かっこよくいえば、「社会的漂白化」の作業。事実は、すべき仕事ができなかったための「除籍」。主導権は、僕にはない。

既に、社会的漂白化作業の一部を進め始めた。「物理的『死』」は選ばない。僕が目指すのは、「社会的『死』」である。一度の人生、「やらなければいけない」ではなく、もっと、「やりたくてやる」ことを追求すべきだった。これからは、そうします。まずは、お世話になった方々への恩義をつくすところから。それがすべて「完済」し終えたら、やりたいことを始めます。がんばって、30前には、始められたらいいなぁ。


# by shun-futsalar | 2011-12-03 18:50 | 日常

ご苦労さまでした.

本日で、今年度分の一つの仕事に区切りがついた。ご苦労様でした。
今年から新たに始めた仕事だったので、初めは不慣れなこともあって戸惑う場面ばかりだったけれども、今はある程度慣れたことで、全体の動きをざっと掴まえながら応対できるようになった。残るは学校でのアシスタントのみで、それもあと1週間で終わる。常勤職を今は持っていないから、週に数回数時間しかない仕事ではあるが、それがあるおかげで僕の生活にリズムが生まれる。曜日ごと、その日の時間ごとに大体することが決まる。加えて僕の動機によって行う仕事の量と質が変わる。両者が最大になるよう心がけると、その日は疲労する。それが初めから分っているので、動機を高めて一日中仕事するのは「面倒」だ、と思っている。だから動機は中々高まらないし、仕事は始まらない。だが、時間は限られていることも、その仕事の積み重ねが超重要だとも分っている。どうしたら最集中で仕事に没入できるようになるか。その没入の手法を構築するのが目下の目当てである。今考えている没入へのヒントは二つあって、一つは「せざるをえない」、もう一つは「楽しい」。後者は直感レベルで中々言語化できない当事者にしか感じ得ない興奮や快楽に近いものだから、これが一番よいのかと思うが、どうしたら、今「つまらない」と思っていることが「面白い」や「楽しい」に変わるか/変えられるか。その方法や手段、契機を考えなければならない。前者は後者と反対に、「嫌々さ」が伴うことが多い。だが、義務だから逃げずにやるという拘束性も合わせ持つ。しかし、その拘束性は当事者が「絶対にやらねばならない」と思わなければ拘束性として機能しない。逃げられないことは辛いことだと思う。だから、それ以外にすることがない状況を作れば、必然的にやらざるを得なくなるはずだと考えている。なので、僕にとって重要な課題に集中して取り組むために、今はいかにして「どうでもいい」ことをさっさとこなすかの方を考えている。

なんて長々言わずに、やるべきことに自然と取り組めるようになるのが今年度の残りの課題であり、それを語らなくなるまで自然化するのが来年度の宿題である。

# by shun-futsalar | 2011-02-17 23:12 | 日常

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